近海マグロが焼きを入れる

待ち合わせ場所にいたのは、どっからどう見ても魚だった。
魚類そのものだった。
渋谷109の前で、ずいぶんと浮いていた。そしてキラキラと光ってもいた。
右手にヴォーグという雑誌、白いワンピースに青いカーディガン、
目が大きくて髪はショート。
間違いない。あの魚が、さっき電話で話した女だ。

このまま逃げ出そうとも思ったが、
魚は、口をぱくぱくさせて苦しそうだった。
僕はそれがかわいそうになり、彼女に声をかけた。

「あの……愛子さんですよね?」

魚のぱくぱくが止まった。

「そうよ。あなたがさっきの?」

声を聞いて間違いないと思った。
僕は数時間前まで、魚と電話で話していたのだ。
これは失敗だと思った。
とんだハズレを引いてしまった。
完全に、声で騙されたのだ。
もっとも、本人は騙したつもりなどないのだけれど。

僕が絶句していると、魚は再び口をぱくぱくさせはじめた。

「苦しそうですね……大丈夫ですか?」

「なんとか大丈夫よ」

そうは言っていても結構苦しそうだった。
エラがごうごうと音をたてている。
とりあえずここは空気が悪いようだったので、場所を移ることにした。
かといって、どこに移ればいいのか分からない。
水のあるところがいいのだろうか……。

僕と魚は、とりあえず喫茶店に入った。
席に着いて、水が出てくるやいなや、そこに大量の塩を入れ、
一気に飲み干していった。
僕の水にも、塩を入れられたのでそれは魚にあげた。

魚は、なんとか落ち着いたみたいだ。

僕は何か話さなきゃと思い、少しずつ質問していこうと思った。
聞きたいことは山のようにあった。

「愛子ちゃんはあの……」

「海老が食べたいわ」

あまりにも声が大きかったので、僕の言葉は強引にかき消された。
仕方なく僕は店員を呼んで、海老ピラフとアイスコーヒー、
それにお冷やを二つと塩の交換を頼んだ。

「あなた、思ってたよりもかわいい顔してるじゃない」

魚は唐突に話し出した。

「こないだテレクラ行った時なんかもう最悪。お昼御飯も割り勘、カラオケも割り勘。
あったまきちゃう。こっちはあんたの友達じゃないっつうの。」

とても生臭い匂いがした。
でもとりあえず、どこに住んでいて、どうやって生活しているのかが気になった。

「ところで愛子さんはどこにお住まいなんですか?」

「埼玉よ」

海がないところでも大丈夫なのか……?

「でも会っていきなり家を聞くなんていやらしいわね。そうやっていつも口説いてるんでしょう」

「いや、そんなことは……」

「あなた中川家のお兄ちゃんに似てるって言われるでしょう。」

「あぁ……たまに言われますけど、嬉しくはないですね。」

「……まあいいわ。これからどうする?あたしは直行でもいいけど」

明らかにホテルのことを言っていた。
そして海老ピラフとアイスコーヒーが運ばれてきた。
魚はピラフの海老だけを器用に食べていた。
口一杯に海老を頬張りながら、魚は唐突にピースサインを出した。

「いつもは3貰ってるんだけど、今日は2でいいわ。あなたかわいいから」

無理だ。魚っぽい顔した女ならともかく、相手は完全に魚類である。
恐らくマグロの類だろう。
誰が好きこのんで金払ってまでマグロとホテルへいくのだろうか。

「いや、僕今日は手持ちがないのでホテルはナシで……」

「そうなの?あなた援助目的じゃないの?じゃあ何しろっていうのよこれから」

「海にでもいきます?近海にでも。なんて……ははは……」

「何ソレ。さむいんだけど。あ、それって私がマ……」

ぴりりりりりりり

マグロの電話が鳴った。

「あ、もしもし〜、あ、チカ?うん、うん、でもさー、それやばくない?あたしなんかこないださぁ、そうそう、太平洋のときぃ、うんうん、でもね、そのあとぉ、うん……うんそう、あ〜、あれ漁船だったんだ〜。……へー、じゃああの時食べてたらやばかったじゃん。そうそう……ムリムリ!刺身とかありえないし。……うん、わかったーまた電話する。バイバーイ」ピッ。

「あ、ごめんなさいね。昔の友達だったの。ちょっとトイレいてくるね。」

マグロはくねくねとトイレに歩いていった。
彼女の座っていた席はぬめりを帯びて光っている。椅子の下はもうびちゃびちゃである。
僕はこのまま逃げてしまおうと思った。
僕が会計をしていると、マグロはトイレから出てきた。早すぎる。
そして全身がさっきよりもびちゃびちゃになっていた。

「店出るのね。ごちそうさまっ」

「ああ……まあ」

あんなに早く出てくるとは思わなかった。
本当に“用をたしに”行ったのだろうか。

「ねぇ、このままホテル行ってもいいんだヨ」

耳元で甘い声でが囁いた。すごく魚臭い。

「いや、僕はそろそろ……」

「何言ってんのよ。これからじゃない。今日はなんだか気分がいいの。お兄さんとなら、お金なくってもいいヨ」

断る理由を探していた。しかし言葉が見つからない。僕は適当にははっと笑い流して歩いた。

「据え膳喰わぬは……でしょ?」

頭の中を重い空気が流れていた。でも今は完全に彼女のペースだ。これに飲まれたら最期、
僕は帰ってこられないだろう。

彼女の歩いた跡は濡れていて、生臭い匂いが残っていく。

彼女はぐいぐいと僕の袖を引っ張った。

意外にも彼女の力は強く、僕はなかば、引っ張られるようにしてホテル街へと歩いていった
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by gennons | 2004-09-17 00:00 | 妄想
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