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去年の犬

その犬は、はっきりとした人語で「私はCだ」と訴えた。

Cと言えば僕が以前付き合っていた彼女の名前で、
ちょうど去年の梅雨時に姿を消した。
当時僕と彼女の間には湿った溝、情こそあれど、恋人としての意識は互いに衰弱していた時期で、突然連絡がつかなくなったり家に帰らなくなったりしたことに対して焦りはしたものの、まあまたいつか戻ってくるだろうと高を括ってのんびり過ごしたままもう一年が過ぎていた。
恋人との自然消滅というものがどれほど一般的なのかは知らないが僕にとってそれは珍しいことではなく、今までの恋愛も全て、どちらが何をというような別れを経験したことは無かった。
そうういうものに慣れてしまっていた自分が、彼女の蒸発にもあっさり諦めてしまえるような今までを形成してきたのだと思っている。

信じる信じないの意思表示をする間もなく犬は、僕がCと付き合っていた頃の思いでを、これが証拠だとでも言いたげに語り始める。

「伊豆で見つけたとろろごはんのお店に、二人でレンタカー借りていったよね」だとか「クリスマスの日は毎年教会に行って、クリスチャンじゃない私はドキドキしながらもあなたの一挙一動を横目で見ながら賛美歌を歌ったり、ろうそくの火をまわしたり、大変だったのよ」など、間違いなくこの猫はTであると、疑う暇さえ与えてもらえない。

僕はそうだね、とかあのときは楽しかったね。とか間の手を入れることくらいしかできず、犬になったCの首をくしゃくしゃとなでてやる。

玄関先でゴミ捨てに行こうとしていた僕は、片手に大きなゴミ袋を下げてCの話を聞いていた。
Cはようやくそのことに気がついたようで
「ゴミ、先に捨ててきたら?」と言ってくれた。

僕はCにあがって待っててもらうように伝え、ゴミを捨ててから月のない夜空を見上げた。空には梅雨らしく、分厚い雲が我が物顔で張りつめていて満月でも出ていたのならもう少しおとぎ話みたいな雰囲気が出たのになぁと思い、
「出たのになぁ」だけ呟いて部屋に引き返した。

「ごめんなさい。熱いのは今飲めないの」

コーヒーを容れる僕の背中に、申し訳なさそうな声でCは言った。

「猫舌って犬にもあるんだね」

そう言いながらCはぺろりと大きな舌を出し、自分の鼻を舐めた。
テーブルの脇にある椅子に「おすわり」の状態で水を飲むCは、まるで以前からそうだったように見える。このまま犬の姿で、人の声で、思考と記憶はCのままでいられるのだろうか。犬を家族のように愛する人が多いのは、僕のような境遇の人が多いからなのだろうか。

風呂はやっぱり嫌いになったようだ。
以前は朝晩の一日二回はシャワーを浴びていたのに、この状態になってからは一度も身体を洗っていないらしい。
いやがるCを押さえながらブラシとシャンプーで身体を洗う僕にCは

「だんだん、人の言葉がわからなくなっていくの」

と言った。僕にはその意味が分からなかった。
今何も不自由無く話し合っているじゃないかという気持ちと、そうできなくなるかもしれないという思いが自分の内側でこじれて僕は、何も言ってやることができない。

二人で同じ布団に入り、僕はまた彼女の話を聞いた。
猫ならまだしも、犬になったばっかりに、警察や保健所の車に追い回されたり、野良犬の社会がもう町に残っていなくて、猫の縄張りで残飯を漁ったり。

Cは延々と話し続けた。

Cの言葉は途中から徐々にあやふやになって行き、最後にはもう完全に犬の言葉になっていて聞き取ることはできなかったが、Tは話すことを諦めず、僕はずっと彼女の言葉にうなずき続けている。
by gennons | 2007-06-07 15:05 | 妄想
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