毛並み

僕の姿が猫になったあの日、薮野さんはとても悲しい顔をして、そうですか。とだけ呟いた。
みかんには「このほうがかわいいじゃない」って言われて、たぶん彼女なりに励ましてくれたのだろうけど
僕はもうみかんのことを抱きしめられるような長い腕を持っていなかったし、
ひげが固いから顔を寄せて一緒に眠ることもできない。
みかんが食器を一つずつ、新聞紙に包んでは箱に入れて、また包んでは入れる作業を繰り返している間僕は、
いらなくなったカーテンに爪を立てて遊んでた。
暇そうな僕を見かねた薮野さんは僕の前にマタタビを数粒置いて
「やっぱり猫といえばこれだよね」という。
確かにもうみんな僕が猫であることに慣れてしまってはいたけど、
ここまであからさまな猫扱いをうけて来なかった僕は少し戸惑いながらどうもありがとう。
と言ってそれをティッシュに包み自分の箱にしまった。

「東京は空気が汚いっていうじゃない? 具合が悪くなったらここに戻ってきてもいいんだよ」

薮野さんはそう言いながらカレーの鍋を持ってきてくれた。
カレーの香辛料はみかんにとって少しきつかったし、僕が食べると口の周りがべとべとになってしまう。
それでもみかんは眉間にしわ一つ寄せずにカレーのお皿を綺麗に平らげる。
僕は小皿に少しだけ敷かれたルーを舐めて、薮野さんにおいしいですと言った。

引っ越しのトラックの中で、みかんは苦しそうに咳をしている。
薮野のカレーなんか食べなきゃ良かったのに。
思ってもそれは口にできない。みかんが無理をしてでもそれを食べるのは、それがみかんだからだ。
彼女と薮野さんの間には何も無かったけど、
薮野さんがみかんに向けた思いを感じ取れない程僕は馬鹿じゃない。

咳の治まったみかんと僕は、昔行った北海道の思い出話に花を咲かせた。
僕はあの頃が一番幸せだったし、みかんもそうだと言ってくれる。
僕はみかんに向かって「にゃあ」と猫みたいな声で甘えた。

6月の下旬に、みかんは倒れた。
東京の空気が合わなかったことと、彼女の夢であった仕事が、思っていたよりハードだったことが原因だろう。
みかんの仕事場まで迎えに行った僕は、会社の人と短い話をして、みかんと共に家まで送ってもらった。

「君が頼りないっていう訳じゃないけど猫だから。ちゃんと面倒見てくれる親戚とかいないの?誰か近くで知ってる人とか」

会社の人がそう言うとみかんは薮野さんのことを出した。
知っている人が故郷にいますから連絡してみます、としかみかんは言ってなかったけど、
そういう人って薮野さん以外にはいない。
このまま戻ったら、みかんと薮野さんは付き合ったりするだろうか。
薮野さんはいい人で、ルックスもそこそこだ。みかんも薮野さんのことを悪く思っていることはないだろうし、
ゆくゆくはそうなってもおかしくないだろう。
僕の寿命は短い。猫だから。でもみかんだって明日生きているかどうかもわからない。

病院から出てきたみかんは「大丈夫。心配ないって」なんて笑顔を見せてくれたけど、
お医者に何を言われたのか僕には教えないつもりだろう。
僕は病院に入れない。猫だから。

東京の家をそのままに、仙台に戻ったみかんは、すぐに薮野さんの家へ向かった。
その家の隣、もともと僕らがすんでいたアパートは、埃をかぶっていたけど、僕らが出て行ったときのままだった。
ドアが開いて、薮野さんが顔を出す。
家の中に促されたけど、みかんは僕を抱いて立ったまま、すぐに出ますからと言って家にはあがらなかった。
みかんは会社で倒れたこと。もう自分の命が長くないと感じていること。
薮野さんにいろいろお世話になって感謝していること。あの日のカレーはおいしかったことを伝えてさよならを言った。
薮野さんは「これからどうするの?」って聞いてきて
「俺の部屋ならいつでもあいているから」と付け足した。
みかんは、「行きたいところがあるの」と手を振り、僕の頭をなでてから、少し声をあげて言う。

「彼の、とても好きだった場所へ」
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by gennons | 2007-06-14 16:35 | 妄想
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